Nが死んだその前後の話

今年(2025)の3月5日で、早いものでNが死んで3年経ったことになる。

人が死んで三日経てば三百年経ったのと同様になる、とは山田風太郎が作った警句(うろ覚え。数字は多少違ったような気もする)だが、最近は死んでも結構足跡が残り続けるので、意外と故人を思い出すよすがはあったりするものである。Nのツイッター上のつぶやきや、メッセージのやり取りはまだ見ることができたりするが、明確な契約のないフリーのサービスであるがゆえに消えずに残っているというのも何だか皮肉な感じも受ける。とは言え、ツイッターにせよMixiにせよ、いつまで残っている保証もないし、いい機会だからデータのサルベージついでにいくつか記憶を書き留めておくことにする。

Nの異変に気がついたのは2021年の12月21日。Nがつぶやいた文章に含まれた「人生Restart」という一言が気になって、DMを送信したのである。DMの履歴を見ると、その前にやり取りしたのは実に2018年まで遡っている。当時そんなに関係が疎遠になっていたかと愕然とするが、大学時代から数えて30年以上、それなりの関係が持続している友人が他にも相当数いるという方が珍しいと言うべきか。

DMにてその人生Restartの意味を問うたところ、これまた驚愕の返事が帰ってきた。曰く胃がんであり、先日胃を全摘し現在は化学療法中であること、「余命数か月の状態からは何とか復帰した」こと、だが本人は「まだまだくたばるつもりはない」こと……

これには正直参った。挨拶のしようがないとはまさにこのことで、見え透いた励ましなんか馬鹿馬鹿しいし(どちらにとっても)、愁嘆場を演じる柄でもないし、さりとてボケてみせる勇気もない。鈴木慶一の「君はガンなのだ」を引き合いに出したらどんな反応をしただろうかと思いついたのはそれから1年後のことだった。人間急場にはとっさに頭が回らない。とは言え、その時に思いついたって言えたもんじゃない。それもまた間違いない。結局当たり障りのない会話と、胃を全摘して満足に食物が摂れないNにプリンを送る約束をして終わった。

年が明けて2022年の2月17日(木曜日)。近々退院して帰宅する(ことを匂わせた)らしい書き込みを見てDMを送る。退院予定日は2月21日(月)であるとの由。翌18日、NにDMで住所と電話番号を確認してプリンをアマゾンより発送する。日持ちを考えて資生堂パーラーの缶入りプリンにした。

2月22日(月曜日)。退院したのかDMにて訊ねる。一言「しました。」と返信。それはよかった、と私が送信してこの日のDMは終了している。今思えばこれはもう自宅で死を迎えさせるための退院であったろう。「しました」の一言もそれが精いっぱいだったのかも知れない。

3月1日(火曜日)。「調子はどうだい」とDMを送ったが返信はなかった。

水曜木曜金曜と返信がなかった。これは明らかによくない兆候である。私はじりじりしながら日を送っていた。

3月5日(土曜日)。この日を待ちかねた私は家を飛び出してN宅を目指した。当時まだコロナが猛威を振るっており、病人に面会とか考えられない状況だったが、とにかくじっとしていられなかった。門前払いを食わされても構わない、Nの様子が知りたかった。私は渋谷で手土産を仕入れていこうと思っていたのだが、焦るあまりに家を早く出すぎていた。午前9時過ぎではまだどこも店が開いていなかった。たいていの店は午前10時開店である。業を煮やした私はどこかで時間を潰そうと考えて、何を思ったか吉野家に飛び込んでしまった。だいぶ逆上していたらしい。仕方がないので食いたくもない牛丼を注文して平らげた後店を出たが、まだ10時には至らない。うろうろした挙句、渋谷ヒカリエ(だったと思う)に開店前に行列ができているのを見つけてそこに並び、開くや否や手当たり次第に菓子類を購入して田園都市線に飛び込んだ。

N宅は世田谷線の某駅近くにある。三軒茶屋で世田谷線に乗り換え駅を降り、N宅に向かおうとしてはたと困惑した。家がわからないのである。確かに最後にN宅を訪れてから20年は経っているが、それにしても当時あれほど通って泊まり込んだあの家の場所が思い出せないとは何たることか。ショックを受けながらGoogleマップに住所を打ち込んで家を探したが、そもそもこのあたりの地理を全く忘れており、本来なら5分もかからずに着く道のりを右往左往しながらようやく到着した時には15分ほどかかっていた。

ようやく到達してインターフォンを鳴らすと、しばらくして別のドアが開いた。この家は二世帯住宅になっており、玄関がふたつあるのである。開けてくれたのはNのご母堂のはずだが、断言ができない。20年のブランクは大きかった。その背後には看護師らしい女性が立ってこちらを見ていた。大学時代の友人である旨告げてNの容体を訊ねたら、至極あっさり「どうぞ上がってください」と招き入れられ、その瞬間に全てが察せられた。

Nの居宅は二階部分であったはずだが、介護の利便のために一階で寝かされていたのだろう。介護ベッドが居間に設えられ、その中でNが横たわっていた。ベッドの傍らにはデスクトップPCが置かれていた。当時ツイッターで三国志のプレイ実況をぽつぽつつぶやいていたが、このPCでプレイしていたのだろう。

目と口は半ば開き、意識は混濁しているようで口からは常にうめき声が漏れている。鼻の脇は鋭くえぐれて落ちくぼんでいる。左手の手首から先をわずかに持ち上げ、手は何かを掴もうとしているように指先が曲げられていた。どんな素人が見ても余命いくばくもないことは容易に理解できた。「なんてことだ」という言葉しか出なかった。看護師さんに声は聞こえるはずだからと促され、Nの左手におずおずと触り、乾いた左腕をさすりながら「N、N」と数回呼んでみたが反応らしい反応は見られなかった。

その後ほどなく悄然とN宅を辞去した。帰宅すると手づるのある連中にNの危篤を伝えた。その夜10時過ぎにNの奥さんからNが身罷ったと連絡があった。最後に言葉を交わすことは叶わなかったが、存命のうちにNに会うことができたのは全く僥倖だった。そう言えば、ネット上でメッセージのやり取りはあったが、実際に会話をしたこと、リアルで顔を合わせたのは10年以上前のことになってしまうのか。メッセージのログを見直して、そのテキスト量の少なさに心が苛まれる。なぜもっとメッセージを送ってやらなかったか。携帯の番号を聞いたときになぜ電話をかけて話をしておかなかったか。なるほど、後悔は先に立たないものである。

翌6日(日曜日)、再度N宅を訪れた。7日に葬式が行われるということなので、その前にお別れを済ませておきたかったのである。Nの友人はみな知っていることだが、N家は熱心な創価学会の信者である。

Nは仏壇の前に寝かされていた。顔には白布がかけられていたが、私がNの枕頭に座すと取り除けてくれた。目と口が半開きになっている様は昨日のままでちょっと驚いた。Nは私が見た時の表情のままで身罷ったらしい。目をつぶらせてやるとかしないものなのかと訝しんだが、宗教上の何かがあるのかも知れないと思い直して気にしないことにした。仏壇自体は扉が閉められていたが頼んで開けてもらった。Nの亡父が祀られているからである。Nのお父上には私は生前一方ならずお世話になっており、訃報を聞いてこの方一度も線香をあげたことがないのがずっと心に引っかかっていたのだ。

父子二代に線香をあげた後にNの死顔を改めてしみじみと眺めた。やつれた顔はしているが、大学時代のNの顔を彷彿とさせた。30過ぎてからだいぶ顔に肉がついてきていたのだが、そうだ、本来Nは顔の皮膚の薄い男だった。髪の毛こそ若い頃と比べることはできないが、今のこの削げたような顔はNの若いころによく似ている。裏を返せば、Nは若い頃相当痩せさらばえていたのだなあと改めて感慨にふけった。ビールに缶コーヒー、カップラーメン(でか丸のもやし味噌とかだったか)に煎餅(金吾堂の醬油煎餅)、それとN宅の近所にあった豚骨ラーメン。私が見ている前でNが口にしたのはほとんどそれらのみであった。この極端な偏食はNの健康を相当阻害したはずだが、今や何を言っても空しい。

その後Nのお母さんと小一時間ほど話をした。ずっと腹痛を抱えていたのに黙っていたのだそうだ。ある日、「ばあさん、胃薬ないか」と訊かれ、異常を察知したお母さんは「何言ってんの、すぐにお医者に行きなさい」と近所の内科に送り込んだところ、即座に大病院に紹介状を書かれた。大病院で検査をしたところ……ということだった。なんとNよ、なんというお定まりの展開か。陳腐にも程があるだろう。

幸い職場からは年金が出るらしい。どういう仕組みでどのくらい支給されるのかは私は知らないが、残された奥さんと子供には大きな力になるだろう。また、若い頃の金遣いの荒さは結婚して鳴りを潜めたらしく、すっかり地道に暮らしていたようだ。お父さんが経営していた会社は昔ほど景気はよくなかったらしいがそれでも赤字にもならずにやっていたのだが、お父さんが亡くなった。お母さんがあとを引き継いだのだが、銀行が騒ぎ出した。社長が存命だから貸していたが、こうなってしまってはもう貸せない、可及的速やかに返済してほしい、と。お母さんは憤ったがどうしようもない。するとNと奥さんがやってきた。今までボーナス(だけではなかったそうだが詳細はこれもわからない)は手を付けずに全額貯金してある。丁度返済金額に間に合う額だからこれを銀行に叩きつけてやれ、と通帳を渡したそうだ。そのおかげで、会社はまだ経営を続けることが可能になった。

Nの金銭的武勇伝はもう一つある。今度は身内の相続トラブルで、相続分を金銭で渡すためには会社が建っている土地を売らないと足りず、またしても会社の存続危機に陥った。するとNがやってきて、これを使ってくれと一枚のカードくじを差し出した。それは当たりくじで、当選金額は実に1500万円だった。Nは秋葉原によく出かけて行ったそうだが、その帰りに1枚だけくじを買って帰るのを習慣にしていた。それが見事大当たりし、会社はまたしても危難をかわすことができたのである。「あの子はそういう運の強いところがあってね」私は開こうとした口を閉じて、ただうなずいた。

私が辞去する際、お母さんに形見分けじゃないが何か持って帰るか、と訊かれた。しかし奥さんが「オタクグッズばかりだしそんなものをあげても……」と難色を示して何となくこの話は立ち消えになった。個人的には亜美ちゃんフィギュアでもねんどろいどでも構わなかったし、本音を言えば、もらえるなら具体的に欲しいものはあったのだが到底口には出せなかった。ただ、月曜日の葬儀には出席できそうもないと謝ってN宅を後にした。

話は逸れるが、Nがセ○ラ○ム○ンの亜美ちゃんの熱烈なファンだったのは有名だが、それを揶揄して私がNに「亜美ちゃニスト」という称号を奉ったことがあった。Nは別に怒りもせずにニヤニヤしていた。結構気に入っていたらしい。……閑話休題。

7日(月曜日)。今日は学会主導の葬儀が執り行われるので、私は顔を出さないつもりだった。しかし時間が経つにつれてどうしても最後に顔を見ておきたくなり、会社を早めに引けて葬儀が行われる直前にお別れを言うことにした。主だった連中と連絡を取り落ち合って、葬儀開始の1時間前にN宅を訪れた。「すみません、やっぱり来ちゃいました」とかほざきつつ3日連続で現れた私を見てお母さんは定めし呆れたことだろう。それはさておき、かくして私はNに永久の別れを告げたのであった。

付記。その1年後、Nの命日の頃にN宅を訪れて線香をあげさせてもらった。UとYを誘ったが、Yは半ば脅して連れてきた。お母さんとまた1時間ばかり話をした。Nは膨大なCD、書籍、ゲームその他の資産を持っていたが、そのNコレクションを親戚の某君に全て譲ったのだそうだ。するとその某君は、そのコレクションをあろうことか丸ごと中古屋に叩き売ってしまった。「結構いい金額なったらしくて喜んでいたわよ」と聞かされた時、私はなんとも形容しがたい微妙な気持ちになった。ぼんやりと仏壇の方を見やると、一周忌に向けて先日私が送った資生堂パーラーのプリンが、遺影の前に置かれた鉢に盛られていた。「結局あいつは、あのプリンはいくつかでも食べられたんですかね」と私は訊ねた。「食べた。食べたわよ」と答えが返ってきた。そうか、それならよかった。私はぼんやりとしたままうなずいた。

コメント